2019年3月31日

87 能登あすなろ通信  明日が来るとは言い切れない。


 厚い布団から、薄く軽い布団へと、寝床が春模様になっていく。太陽が高くなるにつれ、竹藪の背丈を通り越して庭に陽が差し始め、わが家でもっとも寒かった部屋が、今は一番温い部屋へと様変わりしていく。晴れ間、日中窓を全開すると心地良い。身体が、日差しを受けて、春の陽気が嬉しいと言っている。冬が長く、寒かったから、こんなにも春の陽気が嬉しく、ありがたく感じるのだと、春を迎える度に思う。
長い間、都会に住んでいた。今能登に住んでみると、その都会の空がどんなに狭かったか。風や自然が、どんなに少なかったかを思い知らされる。高いビルディングが乱立していく都会は、空や自然がどんどんなくなっていく。緑や花が、花屋さん辺りにしか見ることができない。何でもない雑草が見当たり難い。
しかし都会でも田舎でも、どこであっても、真上の空を、思い切り眺めるには、それだけの意志と力がいる。名も知れない雑草に目を奪われるには、秘めた心がなくてはならない。見たい、感じたい、切望している思いがなければ、空も、風も、木々も、何もかもが路傍の物だ。
空、風、樹木、草花、この身、この心、何もかも当たり前にあるものが、実は当たり前のものではないかもしれない。地球があり、大地があり、緑が生じ、人類が誕生している。今この世があり、現実があり、色々な人びとがいる。ぼくもいる。明日は、来る、のだろう。しかし誰も明日が、来るとは言い切れない。                        2019年3月23日

0 件のコメント: