2025年12月13日

167 能登あすなろ通信 柿酢

 


色んな木々が葉っぱを落としていく。柿の木も、葉っぱを落とし、丸裸になってしまったが、柿の実は、鮮やかな赤色して枝にぶら下がったまま、自然と落ちるのを待っている。毎年渋柿の皮をむき、焼酎につけて干し柿にする。去年は、不作の年で、柿の木には実がつかなかった。それで、干し柿もできなかった。ところが今年は、去年の分も取り返したかのようにして、たわわに見事に実った。余り多く実ったので、柿酢にした。ただ潰して、漬け込み、一日一回かき混ぜるだけで、来年の春には柿だけの酢ができる。どんな味の柿酢になるのか、それが楽しみで、かき混ぜていく。

これまで、海を眺めるには、我が家の二階に上がらないと、眺めることができなかった。それが、近所の家々の解体工事が進んだお陰で、玄関口から海が一望できるようになった。我が家と海との間には、殺風景な裸土ばかりが露わになり、辺りは何だか空虚な風ばかりが漂っている。それが虚しいのか、寂しいのか、自分でもよく分からず、混沌としていく。しかし、こういった新しい風景にも、時と共に親しんでいくのかもしれない。

人が生きるには、衣食住が満たされるだけでなく、一人ひとりに沿った希望や夢がなければ、真の活力にはなっていかない。世の中や他人に随従しているだけでは、本当の希望や夢にはなれない。一人ひとりが、自らの足で自らの道を切り開き、歩いていくことが、活力源になっていくのだ。そこは、たった一人で、道なき道を歩いていくような孤独の世界だ。

2025年11月30日

2025年11月3日

166 能登あすなろ通信 苦

 


とんでもなく暑かった夏は、もうずっと遠くへ行ってしまったようで、殆んど影も形も見えなくなってしまった。その代わりに、一年でもっとも過ごしやすい秋を通り越して、寒い冬が目の前に迫ってきている。せっつかれるようにして、炬燵、ストーブを押し入れから出して、掛ふとん、毛布を日に干したりしていく。炬燵は早速使い始めた。夜はストーブに火をつけ始めた。熱い味噌汁、おかずが美味しい。夏の間の冷やした物ばかり好んでいた食卓とは打って変わってしまった。

ここ黒島は、今、あちこちの傷んだ家々の解体工事のまっ最中。普段静かで、人通りも少ない黒島であるが、工事関係者の声や姿が出入りする。朝から重機の音が、大型トラックが走っていく。まるで都会の片隅で暮らしている感覚だ。一軒一軒と壊されていくにつれ、空き地が増えていく。誰も住んでいなかった家であっても、その家が失われて、見えなくなっていくことは物悲しい。他人ですらそんな思いがするのだから、当の本人にしてみれば、自分の一部分を壊されていく気持ちがするのだろう。

今、日々爆弾を浴び。戦火に追われ、命からがら逃げて、逃げて裸同然の暮らしを強いられ、食べ物も中々手に入らない人々がいる。自然災害、個人的な災害で、急な困難な生活を強いられている人々がいる。私たち一人ひとりも、明日どんな生活が待っているか、誰も分からない。「生老病死」という人生を、仏陀は苦であると言われた。その苦を、真面目に受け留めていく人は、この今を楽にしていくことに努めていくのだろう。                         

2025年10月31日

 

2025年10月4日

165 能登あすなろ通信 柿が赤く

 


つい先日まで、朝畑へ向かう道中から、はや汗がにじみ出て、とても暑苦しく辛かったのだが…。今は、畑へ向かうことが楽だ。風は爽やかで、太陽の光りも穏やかで、ぬくい。急激に秋の風情が濃くなってきている。

柿の木に実が、赤っぽく色づき始めてきた。去年のこの辺りの柿は全くの不作だった。今年はたわわに実をつけ、鈴なりに実っている。カラスたちも少しづつ、ついばみ始めてきた。真夏のまっ最中、全く刈りとる気にもなれなかった雑草らも、すっかり背を高くして、枝も逞しくなった。その間を縫って、数年前に幾種類もの種を蒔いたコスモスが花を咲かし始めている。そのコスモスは刈らないようにして、慎重に、大地を散髪していく気分で、草刈り機を動かしていく。段々に人間の頭の様にすっきりしていく。

この身は、人間である前に、動物や植物として生きている。心臓が鼓動しているのも、寒く、暑くなるのも、眠くなり、食欲湧いて、唾液が出るのも、みな動物としてだ。木に触れて心地良さを感じたり、可憐な花々に見惚れたり、単なる葉っぱの色形に感動するのは、同じ素材で、同じ空気で生きている仲間だからだ。

人間であることは止めることはできない。でも実際には、動物、虫や植物としても生きている。空や星々、海や大地、風、そんな途方もない存在にも、思いは、自由に想像して、仲間入りしていく。ともあれ、この大宇宙という無限の中で、どんな形や姿であれ、今、時を同じくしておる事は、実に驚くべきことだ。                           2025年9月29日

2025年9月8日

164 能登あすなろ通信 アツーい夏

 


八月も終わりなのに、一向にアツ~い日々が止まない。クーラーのない我が家は、家の中で一番涼しい玄関の土間で、ありったけの戸や窓を開き、そこで殆んど一日中生活している。夕方になると蚊取り線香を三つ点ける。しかしその防御態勢を突破して、襲いかかってくる強者もいる。蛾、コオロギ、コガネムシもやって来る。時にツバメも飛び込んで来る。ツバメは部屋の中が居心地良いのだろうか。天井に渡してある竹の上で、暫く過ごしていく。人懐こいツバメと共に暮らしたい気持ちは、憧れに近い。だが彼等の排尿、排便が、部屋を忽ち大変な状況としていく。家の中で放し飼いにしている愛鳥家の人たちは、そんな情景も楽しいのだろうが。

能登は、海に囲まれており、森が豊かにある世界だ。風も、そんな生き物たちの気配を運んでくる。特に夜明けと共に来る風、空気は絶品だ。それを思い切り全身に浴び、肺や内蔵にまで取り込むと、それが一日の活力となる。人工で作られた食事や栄養剤では摂取できない、計り知れない天然のエネルギーだ。しかし、その海、森も川も、人間の手によって汚され続けている。ぼくらが使い、そして要らなくなり、放り出してしまった、処理できないゴミが地球に埋もれていく。

地球は生きている。生きているから、地震も、台風も起こる。あらゆる生きもの達が、この地球と共に生きている。人間だけの地球ではない。お金や、人間の便利さ、豊かさの為にある地球ではない。ぼくらだけが繁栄して、地球を我が物にしていける筈がない。           2025年8月30日                                                                    

                           

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2025年8月4日

163 能登あすなろ通信 雨が

 


雨が一向に降らない。その間に梅干しは仕上がったのだが…。日照りが続く。イネ科の丈夫な雑草も、さすがに萎れ始めてきた。井戸の水を汲み上げ、畑にある夏野菜に水をあげるのだが、その井戸の水の水位もどんどん低くなり、こちらも枯れてくるのではないかと心配になってくる。

冬は冬で、寒い、寒い。と震えながら、お日様を恋しがり、早く暖かくなることを思い。夏は夏で、暑い、暑い。と、ぐったりとして、早く涼しくなることを思い…。毎年、毎年の同じ事の繰り返しのようだが、どちらにしても穏やかな季節の到来を夢見るようにして辛抱強く、我慢しながら、日々を暮らしている。それは、みんな同じ状況だという安堵感があるからで、誰か特別の人だけが、この酷暑から免れている訳ではない。寒い時には寒さを感じ、暑い時には暑さを感じることで、秋や春の季節は特別な恵みとなって、嬉しい、ありがたい、という気持ちがふつふつと湧いてくる。それは、どんな人にも共通した、心地よい季節への感受性なのだろう。

猛暑は、世界中に広がっている。南極、北極の氷が融けだし、海の水位が上がり、温度が上昇している。小さな島々は海に沈んでいく。このまま進むと人類は地球に住めなくなっていくと、気鋭の専門家達は警告を発している。ぼくら人間は内輪喧嘩している時間がない。タイとカンボジア国境争い、あちこちでの戦争をしている余裕がない。だが、夫婦喧嘩、兄弟喧嘩、近所同士の諍いが止められない。国会での権力闘争、言い争いが止められない。止められない…。                      2025年7月28日